
1589年に後北条氏の家臣・猪俣邦憲が、真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は1590年に関東に遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。
東北諸大名にも、臣下としての小田原参陣を要求。
しかし東北の大半を制していた伊達政宗は、派兵を渋り姿を見せなかった為に、秀吉は激怒する。
その様子を知った政宗が、あわてて死装束をまとい秀吉の元に赴き謝罪した為、秀吉は遅延を許した。
この時秀吉は平伏する政宗の首を扇子で軽くはたき、「もう少し来るのが遅ければここが危なかった」とつぶやいたとも言われている。
小田原城は、上杉謙信や武田信玄でも落とせなかった堅城だが、天下をほぼ手中に治めた秀吉の前では無力であった。
三ヶ月の篭城戦ののちに北条氏政・氏直父子は降伏。氏政・氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。(小田原征伐)
元号 |
西暦 |
秀吉の歩み |
天文 6 |
1537 |
尾張(愛知郡中村)に生まれる。母はなか、父は織田信秀の足軽木下弥右衛門と
いわれているが定かではない。 |
天文23 |
1554 |
織田信長に仕える。[2] |
永禄 4 |
1564 |
浅野又右衛門長勝養女(実父杉原定利)ねねと結婚する。[3] |
永禄 8 |
1565 |
信長の朱印状の副状に、木下藤吉廊秀吉と署名した。[4] |
永禄 9 |
1566 |
墨俣築城、斉藤竜興(たつおき)の兵を破る。[5] |
永禄12 |
1569 |
京都奉行の任につく。但馬、播磨の出兵に参戦する。[6] |
元亀元 |
1570 |
信長、家康とともに浅井・朝倉を近江姉川に破り、横山城を守備。[7] |
天正元 |
1573 |
この頃羽柴と改姓。信長に従い小谷城を攻め、浅井父子を攻め滅ぼす。 |
天正 2 |
1574 |
今浜に築城して長浜と改め、筑前守を名乗った。[9] |
天正 3 |
1575 |
信長、家康とともに武田勝頼を三河長篠に破る。 |
天正 8 |
1580 |
別所長治を三本木城に攻め、陥れた。[11] |
天正10 |
1582 |
本能寺の変。毛利氏と講和し高松城主清水宗治自刃させる。 |
天正11 |
1583 |
賤ケ嶽に柴田勝家の将佐久間盛政を破り、越前北の荘城に柴田勝家を攻め滅ぼす。 |
天正12 |
1584 |
小牧・長久手の戦い。徳川家康、織田信雄の連合軍と戦い破れる。[14] |
天正13 |
1585 |
四国の長宗我部元親を降伏させ、四国を平定する。 |
天正14 |
1586 |
妹(旭姫)を徳川家康の正室にする。家康上洛、大坂城にて秀吉に謁見。[16] |
天正15 |
1587 |
兵2万6000を率いて、九州島津氏を征伐するため大坂を出陣。[17] |
天正17 |
1589 |
側室淀殿、淀城にて鶴松を生み、大坂城に移る。[18] |
天正18 |
1590 |
小田原城に北条攻め。北条氏直、織田信雄の陣に投降。ついに北条氏滅ぶ。[19] |
天正19 |
1591 |
羽柴秀長(秀吉弟)、子鶴松没。養子羽柴秀次、関白左大臣に任ぜられる。秀次太閤と称す。[20] |
文禄元 |
1592 |
諸大名に朝鮮出兵を命ずる。大政所(母なか)没す。[21] |
文禄 2 |
1593 |
側室淀殿が大坂城で捨丸(のちの秀頼)を生んだ。[22] |
文禄 4 |
1595 |
秀次の左大臣、関白の官職を奪い、福島正則等を高野山におくり、秀次に切腹を命ずる。 |
慶長 3 |
1598 |
秀頼とともに醍醐寺三宝院に観桜の宴を開く。徳川家康、前田利家等5大老に秀頼を託す。 |

